子どもが発達障がいかも?
悩んでいる保護者のかたへ
子どもが不登校になるとご家族は悩み・苦しみ、自分のことを責めがちになります。そして、それが子どもの苦しみをさらに深くしてしまう。
この負の連鎖を断ち切り、
一人で悩まないで相談できる人、場所があることで豊かな心を育むと信じています。
講習会のご案内
今回のテーマは、
発達障がい~子供の進路の課題~
進学と雇用に関して重要な情報が乏しい…
ご家族の悩みや不安に感じていることは、ありませんか?
実際の事例について講師やパネリストから解説と助言をいただく内容となります。
燈会(あかり)運営者の私は発達障がいの子どもを持つ母親
当時の経験をまとめる事で自分の心の整理ができた事と、同じ思いで悩んでる保護者のかたの悩みが軽減する一歩を踏み出してほしいと願っています。
乳幼児期(0~3歳)
私(自分)の主観としては、初めての子でした。子育てについては周りから聞いている感覚と違う違和感がありましたが、私自身はとても育てやすい子どもでした。 しかし、仕事と家の往復のため同じ年頃のお子さんを持つママ友がいなく情報交換をすることがなかったため、子どもの成長に関して不安視をすることもありませんでした。
- 離乳食の好みがはっきりしている
- 夜泣きをしない
- おむつが汚れていても泣かない
- 人見知り、場所見知りをしない
幼児期(3~5歳)
周囲の子どもと接する中で、違和感から発達障がいかもしれない?と少なからず考えるようになりました。
保育園の先生に相談すると、『個性ですよ』とアドバイスをいただき、発達障がいと結びつけることはありませんでしたが、『血液型の違いかな?』など、別な要因を考え自身に言い聞かせていました。
- 味覚の過敏
- 家庭での様子と保育園での様子が異なる
- 興味のあることのみ集中力を発揮する
- 注意を受けると目を閉じたまま長いときは2時間ほど動かずに黙り込む(私の中では悟りの時間に入っているのかと思うくらい目を閉じたまま微動だしないのでお地蔵さんタイムと自身に理解させていました)保育園でもそのようになる時間があったようで、先生方と相談しながら様々なアプローチをした結果、少しづつお地蔵さんタイムが短くなっていったことを喜んでいました。
- 他人と喜怒哀楽が異なる
- 思いのままに動くので道路に飛び出したりする
- 物に対して愛着がなく、他人の物も自分の物と同じ扱いをする
少年期(5~12歳)
学校から奇行についての連絡を受けて「お家では、どのように対応していますか?」と先生から問われ、学校で攻撃的な振る舞いをしていることが、その時に分かりました。わが子の年代は毎年クラス替えがあり、長期にわたって子どもと接してくれる人物は学童の先生だけという環境でした。自宅でも少し変わってはいるけど、いわゆる普通に生活できていましたし、学童からは特に何か報告を受けることはありませんでしたが、なんとなく心配で担任が変わるたびに子供について相談はしていました。この後にも記載しましたが、小3までは『ちょっと言うことを聞かない子』と言う程度でした。
<小学1年生>
学校の先生に相談すると、『個性ですよ』とアドバイスをいただき、 違和感があるものの子どもを見守りました。
- 教室内で落ち着きがなく、授業中に座っていられないと報告を受ける
- 授業中、座るように促すために先生が体を触ると暴れるようになったと報告を受ける
<小学2年生>
この頃は学校や担任からの問い合わせや心配になる報告も受けず、当時は先生との相性や対応が本人と合っていたのかなと平穏無事に考えていまし、私自身は問題なく過ごす事ができていると思っていました。
<小学3年生>
この頃には発達障害がいかもしれない?という違和感から確信へと変わりました。
この年に赴任した校長先生が長年に渡り特別支援教育に携わってこられたと伺い、相談したところ『僕もお母さんがご心配されている行動に発達障がいの特徴がよく出ていると思います。』とアドバイスをいただき、お医者さんを紹介してもらいました。
- 授業科目によって教室に入れなくなり、思い通りにならないと暴れると報告を受ける
- 授業中、教務室に行き先生の机を開け閉めすると報告を受ける
- 学校の物を壊すと報告を受ける
- 学校内で問題行動を起こした後は、学校内で自殺行為を始めると報告を受ける
そして、軽度の発達障がいと診断。
“育て方や環境のせいではなかった”
“対処法が見つかった”
と、ほっと肩をなでおろしました。
そして初めて薬を処方されました。
薬を飲んだら治るものではありません。
でも
息子はお医者さんにこう聞きました。
『先生、僕この薬を飲んだらもう暴れなくなりますか?』
その一言から、自分一人が苦しかったと思っていたけど、わが子が一番つらい思いをしていたと気づきました。
<小学3年生> ~薬を飲み始め~
たまに暴れるという報告はありましたが、薬の効果もあり、(効果は個人差です)衝動性は抑えられてきました。
これも一般的な子育てと変わらないかもしれませんが成長と共に、価値観の相違や環境のルールに適応できない、自制心をコントロールできずコミュニケーションに支障をきたすような小さなトラブルは日常茶飯事のこと。
学校からもフォローをいただき特別支援学級に編入できたため、大きなトラブルは避けることができました。
夏休みの1ヶ月間は、病院側から打診があり入院施設のある病院へ転院。今後入院が必要になる対象の患者なのかを経過観察することになりました。
<小学4・5年生>
小学3年生夏休みの入院を経験したことによって少しずつ落ち着きを取り戻したように見えましたが、入院が必要な状況が訪れると再び入院(3ヶ月間)をしました。
しかし、再入院(3ヶ月間)をしたことから学校での勉強の遅れや、お友達のグループ構成など、様々な環境の変化から溝ができ学校に行きたがらなくなりました。
- 友人の家の冷蔵庫を勝手に開けると報告を受ける
- 大人のカバンを許可なく開けると報告を受ける
- 一般的な環境のルールに適応できないと報告を受ける
- 時系列を理解して説明することが難しいと報告を受ける
- 忘れ物が多い
- 自分に都合のいい解釈をする
<小学6年生>
- 自分が周囲と比べて学習面で遅れていると気づく
- 自らコミュニケーションを避けるようになる
青年期(12~15歳)
中学は支援学級と普通学級どちらに行きたいかを聞き、本人希望の普通学級で入学しました。
進学したら部活にも入りたいというモチベーションで学校に通っていましたが、この頃から、虚言や人の言動の受け取り方が屈折し始めます。
正義感が強く、こだわりや潔癖なところ、他人に完璧を求めるなど、自分は正しいことをしているつもりが、友達に注意を受けることが多くなっていたようです。
複数回の入院で、自分の衝動が抑えられなかった時の対処(衝動が抑えられなくなったらクールダウンの時間や場所を作るなど)を自分なりに学んでいましたが
”自分の思いが上手く伝えることができない悔しさ”
”自分は正しいことをしているプライド”
”いやがらせをされているという被害妄想”
から問題行動を起こすようになります。その度、「死にたい」と言うことも増えました。
ある日の登校時、友達の輪から友達の笑い声が聞こえ、自分を笑ったと勘違いをしたようで、校舎に着くと玄関で大の字になって「教室に行きたくない」と騒いでしまったようです。本人はその状況が恥ずかしくなり、家に帰ってきてしまったと話してくれました。
そこから御飯を食べなくなり、学校にも行けなくなってしまい、再び入院。
この頃の私は、家庭内で起こりえる最悪な状況まで考えるようになり自分自身も追い込まれていました。
今の私のできることは?
せめて子供の自立を促すことができる環境づくりができないか。
この子にとっての最善策は何だろう。
様々な方法や環境を模索し、県外ではありましたがいくつかの発達障がい、生きにくい人たちの支援のための全寮制のフリースクールを見つけました。
様々な方針の施設がある中、今の彼に合いそうな方針の施設を見つけていたのですが、子供と離れることや他所に預けることに迷いがあってなかなか踏み出せずにいました。
このころは私も再婚はしていましたが、主人は単身赴任を要する立場のため、気にかけていてくれていても私たちの日常に触れることはありませんでしたが、転勤先から帰省した際に、壊れそうになっている親子の姿を見て第三者の目でこのままだとどちらも壊れてしまうと施設に預ける判断の背中を押してくれました。
当時は病院の近くに新潟校がある事もわかり、見学に行ったところ、学校長さんが本人と話してみたいとのことで、入院中の彼を訪問。(現在新潟は閉鎖)本人の希望で入寮が決定。現在は、スタッフ側の人間としてお世話される側から、同じ困難を抱えている入寮性を支える側の人間としてお世話になっています。
- 虚言、人の言動の受け取りかたが屈折
- 自分をコントロールする対処法を覚える
- コミュニケーションが思うようにとれない
- 自己嫌悪から「死にたい」と言う
様々困難はあったように思いますが、自身は沢山の方々の支えやアドバイスを頂ける環境にあったため、今に至っています。
この会を立ち上げるにあたり、自分の環境など様々な出来事を思い出しながら文章をつづってはいますが、とてもつらく感じることが多く、書き上げるまでに時間もかかりました。喜びも悲しみも辛さもここに表現できていることは全てではないと感じています。
自身が未熟だったため、子供に出来なかったことの反省に悔やまれることも多々あります。
でも、完璧である必要もないと感じています。
このような経緯から、相談する先や対応方法に悩まれている方々から様々なご相談を受けました。そのことから、同じ悩みを抱えている方々に少しでも何か発信できることはないかとこのようなコミュニティーを作ろうと思いました。